2015年3月アーカイブ

第一の交通革命

東海道本線が明治22年に開通した当時は、単線で、各駅停車を行ない、しかも、ブレーキは手動式であったので、その表定時速(駅で停車している時間を含めた平均スピード)は、30.1キロと今からみれば低速で、その後多少のスピードアップを行なったが、それでも表定時速は34.8キロにすぎず、新橋~大阪間が16時間29分にまでしか短縮できなかった。

 

ところが、急行列車を明治二九年頃から運行させることによって、表定時速が36.5キロにスピードアップされ、更に明治30年代末には44.2キロにまで上昇させることができた。

 

それでもスピードアップの度合いは今日の物差でみればそれほど大きいとは考えられないが、当時にあっては大きなインパクトになったといってよい。

 

もう一段のスピードアップのためには、日本の鉄道省は技術陣を動員して、第1に「最急行列車」の運転を明治40年から開始した。

 

2に明治44年には複線化が完成し、明治45年頃に「特急列車」が運行されることになった。

 

これによって表定時速は47.7キロまでスピードアップすることができるようになった。

 

このスピードアップを可能にさせた背景には一つの技術革新があった。

 

それは、手動ブレーキシステムから真空ブレーキシステムへと制御技術の革新を行なったからである。

 

かくて新橋~大阪間の所要時間は8時間55分へと開業当時の約半分にまで短縮することができた。

 

さらに、大正14年に自動連結器が取り付けられたし、昭和2年に東京~国府津間が電化され、「つばめ号」がエア・ブレーキ・システムを取り付けて東京~大阪間を走ることとなり、東京~大阪間が8時間20分にまで短縮されることになった。

 

戦後は、昭和30年に全線電化が完成し、34年に旧「こだま号」が特急として運行を開始し、電気・空気制御によるブレーキ・システムの採用もあって、表定速度は86キロまで上昇し、東京~大阪間が6時間50分にまで短縮されることになった。


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